この対談は妙壽寺本堂落慶30周年記念インタビューとして同寺の広報誌「寺楽寿(てらす)」16号、17号に掲載されたものです。
転載許可を頂きました。話の展開により一部見出しと構成を変更しておりますが全文掲載させていただきました。
なお対談相手は三吉廣明氏(妙壽寺住職)です。
泊 懋氏(元東映アニメーション会長)が語る映画の時代とテレビの時代
パート3: 時代は映画からテレビへ
三吉 実は母堂は時代劇が大変好きでございまして、私が物心がついた時から母堂が観るテレビ番組は、一番好きな市川右太衛門さん。右太衛門さんはもちろん東映の大御所、もう一人の大御所の千恵蔵(片岡)さんもいて、このころからカラーのテレビになった時代で、「旗本退屈男」を母堂がすごく喜んで観ていました。ただ子供心に不思議だなと思ったのは、出るたびごとに着ている着物が違うんですね。(笑)
泊 その通りです。よく観ていらっしゃいますね。
三吉 あれは今考えるとちょっと非日常というのかすごく良かったなと。
泊 退屈男の衣装はその都度新調していました。着物の模様は専属の高名な日本画家が描いていました。右太衛門さんは一度着たものは二度と着なかったのですが、衣装は全部行李に入れて大事に保管していましたね。誰かに使おうと思ってもアレを着れる人はいなかったそうです。
刀も毎回新調していましたから、まさに大スターです。ご子息の北大路欣也さんから聞いた話ですが、右太衛門御大から「スターは仕事がない時こそスターでいなければいけない」と聞かされていたそうです。私たちは欣也さんで二代目退屈男をやりたかったけど、御大は許可してくれませんでしたね。
三吉 あと長くお寺のお手伝い頂いたおばあ様(本多やす刀自)がいて、「素浪人月影兵庫」が大好きでした。劇中で兵庫が「おから」が好物なので「おから」をお届けしたいといつも言っておりました。近藤十四郎さんは松方弘樹さんのお父様ですか。
泊 松方弘樹さんと目黒祐樹さんの父上ですね。立ち回りは天下一品でした。松方さんも立ち回りはすごいですよ。
三吉 そうですか。あの後「素浪人花山大吉」になりましたね。
泊 「月影兵庫」は高視聴率でしたからずっと続けたかったけど、長く続くと原作から脱線していくものですから、原作者の南條範夫先生からストップがかかりましてね、泣く泣く花山大吉に変えたわけです。
三吉 泊さんは35歳から60代のはじめまで東映のテレビ部門にお移りになられて、まあ本当に視聴者がどれだけ楽しませてもらったかというぐらい多くの作品を生みだされ、製作されました。「清水次郎長」「新撰組」「仮面ライダー」「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」「特捜最前線」「影の軍団」「はぐれ刑事」「三匹を斬る」「ホテル」等々。もう観ない作品はないですね。(笑)初期のころの「清水次郎長」はどなたが主役ですか。
泊 竹脇無我でした。フジテレビ土曜8時でした。向田邦子さんがシナリオを書いてくれて、大政が大木実、森の石松あおい輝彦、三五郎が近藤正臣、お蝶に梓英子で大成功の番組でした。
三吉 私10年ぐらい前に家内の親友のPTAお仲間が中村橋之助・三田寛子ご夫妻で、紹介を受けて家内と東映太秦に見学に行ったんです。その時に2階の待合部屋に行きました。
泊 俳優会館ですか
三吉 ええ、右太衛門さん、千恵蔵さんの専用の部屋があり、順番が決まっているんですね。
泊 よくご存じですね。撮影所の一画に三階建ての俳優会館がありまして、一階は演技課の事務所や衣装部屋とかズラをつけたりする結髪メイクの部屋があり、二階の右手に千恵蔵御大、一番左に右太衛門御大の部屋がありました。錦之助さんや橋蔵さんはどんなに人気が出てきても間の部屋でした。若山富三郎さんはまだ三階だったですね。右太衛門三が京都を離れた後には鶴田浩二三が入っていました。高倉健さんの部屋は真ん中にあって健さんが東映を離れた後もずっと空室のままにしていました。撮影所はこうした人情が連綿と続いているんです。
三吉 製作サイドには何とか組みたいなのがあって、個性的ですよね、斬られ役の方たちのポリシーがあるんですか。
泊 剣会ですね。最盛期には5本も6本も同時に撮影してましたから立ち回りの掛け持ちで、あの人たちが一番忙しかった。
三吉 かと思うと、川谷拓三さんのように、そういう部屋から上がってくるかたもいますしね。
泊 川谷さんはあの中から見出されて一枚タイトルの役者になりました。