この対談は妙壽寺本堂落慶30周年記念インタビューとして同寺の広報誌「寺楽寿(てらす)」16号、17号に掲載されたものです。
転載許可を頂きました。話の展開により一部見出しと構成を変更しておりますが全文掲載させていただきました。
なお対談相手は三吉廣明氏(妙壽寺住職)です。
泊 懋氏(元東映アニメーション会長)が語る映画の時代とテレビの時代
パート2:任侠路線から実録路線へ
三吉 東映さんには「網走番外地」の任侠路線から実録に行ってしまいますよね、深作欣二監督の「仁義なき戦い」とか。同じ任侠でも最初の頃の任侠と終わりの方ではちょっと違うと思いますが。
泊 その通りですね。お話のあった学生運動盛んなころ、学生たちはじめ、あれほど任侠映画を支持していた人たちが次第に離れて行ってしまうんです。東映もおっしゃるように実録路線に転換していきます。
岡田茂さんはよく10年周期説を唱えていましたね。時代劇全盛期は10年で終わった。任侠路線も10年で終わりを迎えました。「仁義なき戦い」の大成功で始まった実録路線は10年とはもちませんでした。
三吉 やはり時代背景でしょうか。
泊 おっしゃるように時代背景ですね。テレビの普及とともに時代劇はテレビにとって代わられました。東映のテレビ部でも「銭形平次」「遠山の金さん」「桃太郎侍」など毎週何本も時代劇を作っていたし、視聴率20%なんてのはザラで「銭形平次」なんかは40%もとっていましたから。
映画のドル箱だった「忠臣蔵」「水戸黄門」「次郎長三国志」も全部テレビのものになる。任侠路線の場合も次第にマンネリ化していき、さらに藤純子が「関東緋桜一家」を最後に結婚引退ということもあって、実録路線に舵を切るんですね。
路線転換と一口に言ってもこれまで支えて来た人を切ることですから大変なことで、任侠に切り変わると千恵蔵はテレビに向かい、右太衛門は東京に去りました。実録に切り変わると志が合わないと鶴田浩二や若山富三郎も去って行くんです。実録路線は実在の人物をモデルにしたりするもんだから社会問題も生じてそう長くは続きませんでした。映画は路線という線ではなかなか考えられなくなって、点で勝負の時代になりました。
三吉 なるほど。僕なんかの記憶ですと実録路線、任侠の終わり頃から出て来た菅原文太さんの「トラック野郎」が当たりましたね。
泊 すごいですね、東映映画に精通していらっしゃいますね。(笑)「トラック野郎」も大ヒットしたシリーズでした。たしか6年間で10作まで続きました。あれは愛川欣也さんがみつけて文太さんが押し通した企画と聞いています。岡田茂さんは「映画は不良性感度だ」といっていました。私は善良性感度のテレビを作りながらそれを見ていました。
三吉 資料を拝見すると、映画の企画にあたって「泣く、笑う、握る」がキーワードだというお話がとっても興味深かったです。
泊 東映映画の要諦は「泣く、笑う、握る」だと入社した時から徹底的に叩き込まれるんです。「泣く、笑う」は松竹や東宝でも同じだけど、東映は手に汗を握るの「握る」がはいる。東映の娯楽映画三原則、会社の個性ですね。ここで稼ぐんだぞ!というメッセージです。
三吉 東映さんは「握る」というところが非常に肝だということですね。
泊 はらはらどきどき、アクション、サスペンス。
三吉 その辺がとっても・・・
泊 ついでにお金も握ってこい、ということで。(笑)
三吉 そうですか。先ほどのお話に戻りますが、実は大原麗子さんのご実家には私も幾度かお盆とかに行っていましたが、もう古くからのお檀家です。そして亡くなられて大原家のお墓にお入りになる四十九日やその後の一周忌の時には石井ふく子さん、それから印象的なのは浅丘ルリ子さん、若村麻由美さん等もお見えになっておられて、随分いろいろな方がお参りにみえました。その中に高倉健さんがお墓参りお見えになられたようですね。
あの当時の10代から20代の浅丘ルリ子さん、大原麗子さんは本当に可憐ですね。今の女優さんとはちょっと違うんですね。これは泊さん、いかがですか。
泊 どうして違うのか私も分かりません。今の女優さんは皆同じようにみえますね。
三吉 ええ(笑)
泊 大原麗子さんは素敵でしたね。東映では不良少女のような役でスタートしましたが、テレビの時代になると「お嬢さんにしたいナンバーワン」といわれる女優になり、大河ドラマの主役も演じて大女優になりましたよね。パーティー会場で浅丘ルリ子さんと並んで「こんにちは」なんて声をかけられた時にはもう本当にウットリでしたね。