Vol  27. 一億総白痴化

 報道の劣化をいまさら嘆いてみてもとは思うが、どうみても事態は悪くなる一方でこのままいったらどうなるのかいささか心配になる。報道に身を置いていた者として自らの力不足を棚に置いて偉そうなことは言えないが、それにしても新聞もテレビも「これがニュースだ」「報道する価値のあるものは何か」といった問いかけや判断を放棄したとしか思えないようなものばかりがあふれている。NHKは会長発言ややらせ問題を理由に政権党による事情聴取(圧力)があって、まったく当たり障りのないニュースばかりになっているし、テレ朝も看板ニュース番組でゲストコメンテーターが番組中に番組制作の裏側を暴露して降板してからは番組で何を言ってもどうも嘘っぽくみえてしまう。新聞も朝日の慰安婦問題以後なんとなく遠慮がちで勢いがないように思えるし、なんだか紙面も薄くなっているように感じる。かろうじて夕刊紙や週刊誌が気を吐いているようにみえるが見出しの派手さほどにかつての田中角栄研究のような核心に迫るものはない。

 いまテレビで気になるのはランキングと称してHPだかユーチューブだか電子メディアのアクセスの多いものを順に並べたりするニュースのつくりだ。視聴者のニーズが多様化している時代だからそれぞれのニュースの価値や判断は視聴者に委ねるといえば聞こえはいいが、報道機関の編集権というのはどこにあるのだろ。ニュースのランキングは送り手が自らの責任と覚悟の上で視聴者に問うべきものではないのか、報道に携わる者の矜持というものはないのだろうか。

  新聞では近年のモバイルを持ち込んでの記者会見がどうもいけない。病院の先生が患者の顔も見ないで診断するのと同じで、会見におけるやり取りに緊張感が全くなく、ただ相手の言っていることをひたすら打ち続け、相手の表情や言葉のニュアンスを感じながら核心に迫ってゆくということがないように思える。その結果か、最近の記事には「00は00と言った」と書いたあとに「これこれの疑問にはふれなかった」とか「00については否定したがこの問題は残る」とか、ある種の批判めいた指摘を書いて締めくくる書き方が目立つ。疑問や問題があると言うのならばその場でそれを質すのが記者というものだろう。そのうえで記事を書くのではないのか。記者会見は報道機関に与えられた特権であろう、読者、国民を代表して生の相手と対峙していることを忘れているのだろうか。 

 「国境なき記者団」という国際ジャーナリスト組織の調査によれば日本の報道の自由度は世界61位だそうだ。自由主義国という看板を掲げる国としてはいささか不本意なランクだと思うが反省する気配はないようだ。大宅壮一氏がテレビ時代を批判して「一億総白痴化」が進むと喝破したのは1957年のこと。いやまテレビのせいばかりではない。メディアの劣化が「反知性主義」をもたらしているのではないか。


小西洋也(こにし・ひろや)

1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

1966(昭和41)年、海城高校卒。

1970(昭和45)年上智大学卒、日経新聞記者。その後テレビ東京、BSジャパンで報道に携わる。

現在は自由業。海原会副会長、海原メディア会会長。