この対談は妙壽寺本堂落慶30周年記念インタビューとして同寺の広報誌「寺楽寿(てらす)」16号、17号に掲載されたものです。
転載許可を頂きました。話の展開により一部見出しと構成を変更しておりますが全文掲載させていただきました。
なお対談相手は三吉廣明氏(妙壽寺住職)です。
泊 懋氏(元東映アニメーション会長)が語る映画の時代とテレビの時代
【パート1】高倉健さんとの思い出
三吉 東映に入社されたのはいつ頃になりますか
泊 昭和30年に東映に芸術職で入社しました。芸術職というのはプロデューサー、監督、シナリオライターを目指すコースなんですが、私は助監督を希望して大泉の東京撮影所に配属になりました。
当時の東映は唸りをあげて前進していましたから、撮影現場は3日徹夜なんていうのは当たり前で、私はたちまち身体を壊して1年余りで本社計画本部に異動しました。配属は映倫審査係で残酷描写や性描写、映画の面白いところをカットしてもらう仕事でしたね。2年後脚本課に異動して、当時は東映とニュー東映と二つの配給系統を持っていましたから週に4本の脚本が必要で大忙しでした。でもこちらは何とかして面白いものを作ろうというところでしたね、
三吉 資料を拝見すると、特に印象深かったのは、高倉健さんの映画のデビュー作の時にご入社されて、最初に助監督を務められ、カチンコを叩いたとか・・・
泊 そうでした。初めて現場に出たのが「電光空手打ち」という映画で、これが高倉健のデビュー作でした。健さんの前でカチンコを叩いて私の映画人生は始まりました。健さんも私のカチンコで初めて芝居をして役者人生が始まった訳で、これだけが私の自慢です。
健さんはその後「網走番外地」で大ヒットし、「唐獅子牡丹」もフレークして大スターになって行くんですね。やがて東映を離れて大作に出演して見事な男を演じて行きます。
健さんへの思い入れが強いものですからちょっとお話させてもらいますが、私が東映に副社長で戻った頃、健さんと再会しました。その時に私は健さんの前でカチンコ叩いて映画人生が始まったのだから最後も健さんの前でカチンコを打ってそれで辞めようとずーっと思っていたんだ。そう言いました。「僕が出て、泊さんがファーストカットのカチンコ打って、その映画は当たるね。ゾクゾクしてきたよ」健さんはそう言ってくれたんです。その翌年に「ぽっぽや」が決まりました。健さんが20年ぶりに東映に戻って来たぞと、撮影所は沸き立ちました。
三吉 大ヒットでしたね
泊 その時私は東映アニメの社長を務めていたのですが 、健さんとの男の約束を果たしに本業をサボって健さん登場のファーストカットを打ちに北海道滝川の現場に向かいましたね。前の晩は羽田のホテルに泊まってカチンコの片手打ちの練習を何十回もやって。
三吉 そうですか(笑)
泊 1月15日(平成11年)厳寒の北海道ですが、熱い思い出ですね。健さんは「カチンコが鳴り響いたよ」と駆け寄ってきて「忘れません」と握手をしてくれたんですよ。健さんから宝物のような手紙をもらいました。「泊ちゃんのカチンコから気を貰って「ぽっぽや」は完成しました。役者は気を貰うことが本当に大切なんです。忘れません」と書いてありました。
任侠を演じて地歩を築いた健さんは任侠を貫いたと思います。作家の陳舜臣さんは中国では道徳の第一番は侠、正義はすぐ180度変わる、信頼すべきは侠である、と言っていますね。侠の字を辞書で引くと義理堅い風骨を持つ人、男気のある様とあります。健さんはご住職のおっしゃった任侠映画から文芸大作までこの姿勢を変えていない、ゆるがない人間力なんですね。